hipはお尻じゃない!裏取りの重要性

ご存知の方も多いと思いますが、世界的に有名なロック・ミュージシャンのプリンスさんが4月21日に57歳の若さで他界しました。死因については依然として警察が調査中ですが、鎮痛剤の過剰摂取が疑われています。

海外の報道によると、プリンスさんは「hip surgery」の既往があり、「hip pain」に長年悩まされていたため鎮痛剤を使用していたと、関係者が語っているそうです。日本では、この「hip surgery」と「hip pain」が、各々「腰の手術」「腰痛」と訳されている新聞記事やウェブサイトが散見されますが、いずれも誤訳だということに皆さんはお気づきでしょうか?これは医薬翻訳でよくある誤訳の1つなので(例:骨粗鬆症治療薬に関する治験文書中の「hip」)、本ブログで取り上げたいと思います。

1. 「hip」はどこを指す?

まず、お手持ちの英和辞典や英英辞典、医学辞典で「hip」を引いてみて下さい。試しに、日本で一番大きな英和辞典『ランダムハウス英和大辞典』第2版(小学館)で「hip」を引くと、最初に「1. 臀部、ヒップ(日本語の「尻」と違って大腿上部から胴のくびれにかけての側面の隆起の一方)、腰;腰回り(の寸法)」と書かれています。若干わかりにくい説明文ですが、日本語の「お尻」や「ヒップ」と同じ意味ではなさそうだということはわかると思います。続いて2番目の意味を見ると「2.(=hip joint)」と書かれています。そこで「hip joint」を引くと「股関節」と書かれています。そうです!「hip」は「お尻」ではなく「股関節」なのです。

したがって、プリンスさんが長年傷めていたのは「腰」ではなく「股関節」だったのです。「hip surgery」を「hip replacement」(=人工股関節置換術)と具体的に記載している海外の報道もありますので、「hip」は「股関節」で間違いないでしょう。「腰」と「股関節」では、部位がだいぶ違いますね。このような誤訳はプリンスさんの記事では大きな影響はないかもしれませんが、医学論文や製薬関連文書などで身体の部位を訳し間違えると、最悪の場合は患者や被験者の命に関わりますから、翻訳時には細心の注意が必要です

2. 意外に多い?!英語の「勘違い」と「思い込み」

今回取り上げた「hip」のように日本語で使われているのとは違う意味の英単語や、言葉の意味や使い方に関して間違った「思い込み」や「勘違い」をしていることが意外に多くあります。

例えば、拙著『薬事・申請における英文メディカル・ライティング入門』第4巻でご紹介しているように、形容詞「different」「similar」や動詞「compare」に、「between X and Y」というパターンを併用する日本人が非常に多いですが、これらの形容詞や動詞に「between X and Y」を使うのは間違いです。正しい構文と前置詞は「X is different from Y」、「X is similar to Y」、「X is compared with Y」です。お手持ちの英和辞典や英英辞典で文例を確認してみて下さい。「お尻」を指す英語の解剖学的名称も、この機会に調べてみて下さい。

3. ライティング・翻訳では「裏取り」の手間を惜しまない

メディカルライターも医薬翻訳者も、情報を正しく伝えること」が最大の使命ですから、言語の種類を問わず、ライティングでも翻訳でも校閲でも、自分のボキャブラリーや知識を過信せず、確認の手間を惜しまずに丹念に下調べや「裏取り」(=裏付けを取ること)をすることが欠かせません。そのことを、プリンスさんの死亡記事を読みながら改めて痛感しました。

皆さんの中には「何も見ずにスラスラ書ける・訳せるのが理想的」、「ベテランの翻訳者は何も見なくても訳せる」などと思っていたり、「いつまで経っても、英文を書く時や翻訳する時に調べ物に時間を取られてしまう」などと悩んでいたりする方がいらっしゃるかもしれません。しかし、私が知る限り、ライティングや翻訳が上手な人ほど、綿密にリサーチ(下調べや裏取り)していて、初心者ほど「怖いもの知らず」で何も調べずに書いたり訳したりする傾向が見られます。裏を返せば、綿密なリサーチを繰り返しているからこそ、正確なライティングや翻訳が可能になり、上手なライターや翻訳者になれるのかもしれません。

このことを裏付ける興味深いデータがあります。季刊誌『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2016年春号で、翻訳歴が平均約10年の日本人翻訳者68名(分野は問わない)を対象に実施したアンケート調査の結果、翻訳の作業時間のうちリサーチに費やす時間が「半分以上」という回答者が約6割を占めていました。調査のサンプルサイズが小さいですが、やはりベテラン翻訳者の多くは丹念なリサーチを行っている傾向が窺えます。

また、ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』を日本語に訳した文芸翻訳家・越前俊弥氏は、翻訳者の3条件の1つに「調べ物が好き」を挙げています。これは翻訳者だけでなく、「書くこと」を生業とする人々全員に共通の必須条件だと思います。

昨今はネットで手軽にリサーチができますし、その分、調べ物の要求レベルが上がっています。メディカルライターや医薬翻訳者の方は、たとえ医学書などの参考書を持っていなくても、少なくとも辞書とネットで単語の意味や用法をこまめに確認する習慣を身に着けましょう。調べ物は面白いですし、探していた情報や表現を見つけて疑問点を解決できた時のスッキリ感や達成感は格別です!

4. 「裏取り」の時間を確保しよう!

ライティングや翻訳の「スピード」だけでなく「品質」も重要な場合に、締切までの期間が短すぎてリサーチの時間が十分取れないと予想されたら、ライターや翻訳者の方は勇気を出して上司やクライアントに締切の延長を相談してみて下さい。また、日頃から参考書を集めたり、ネットの検索方法を工夫したり、有用なサイトをブラウザに登録しておいたりして、リサーチのスキルを磨いておきましょう。

一方、上司やクライアントの方は、リサーチも考慮して、十分な作業時間を部下や外注先に提供するよう心掛けてみて下さい。一般に、作業期間が短いほどライティングや翻訳の品質は下がります。速かろう悪かろうです。文書の品質向上にはリサーチの時間も必要だということを認識しましょう。

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著者:内山 雪枝(クリノス 代表)
元医師、医学翻訳者、メディカルライター、セミナー講師。
明の星女子短期大学英語科卒業。東海大学医学部卒業。
大学病院勤務後、国内翻訳学校と米国大学院で翻訳を学び、
医学翻訳を30年以上手掛ける。
英文メディカルライティングの教育活動も20年以上継続中。
所属団体:米国メディカルライター協会(AMWA)(1996年~現在)
著書:『薬事・申請における英文メディカルライティング入門』I~IV巻(完売)
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